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撤退ではなく、倒産です。
本当に人の入らないデパートで、平日に足を運べばそれはもう本当に静かで寂しくて堪らない気持ちになる、そんなデパートでした。
特に本屋によく足繁く通っていたのですが、品揃えはこれといって良くもないのだけれど、所々に椅子が配置してあり好きに本を抜いて読むことができる、とてもユルい感じの店で俺は本当にこの店が好きでした。
とてもとても悲しいなぁ。
僕は人の少ないところが好きなのです。
でもデパートからすれば、それは望むところではないのでしょうね。
結果倒産してしまったし、
葛藤・ジレンマの様なものを感じます。
まぁ、仕様がないことですけれども。
教習所の技能が全く上手くいきません。
イライラして仕方がありません。
もう嫌だ。

『それでもボクはやってない』
学校の図書館で見ました。
この国の裁判の現状は本当にこういうものなのだろうか。
だとしたら問題だよなぁ。
でもどういう対策と取ればいいのだろう。
JRを国有化すればいいのかしら。
電車の本数を増やせばいいのだろうか。
日本の労働者の現状がいけないのだろうな。
俺はもっとのんびり生きたいなぁ。満員電車になんかのって通勤したくないよ。
作品自体は終始一貫ブレなく進み集中してみることのできる秀作でした。

岡崎京子『リバーズ・エッジ』
2か月ほど前から岡崎京子さんの作品にハマっていて、最近になってそれが落ち着いてきたところです。
いくつか彼女の作品に目を通しましたが、中でもこの作品は面白い。
何というか、雰囲気が、ね。堪らないのだ。
是非ご覧あれ。
『私は貴方のオモチャなの』という作品がこの次に好き。
ちなみに僕が所持してる物は上の写真とは表紙が違います。
先日、僕は環境問題について興味がないと言いましたが、あの表現には語弊がありました。語弊というか面倒だなァという気持ちが先行していて、まじめに語るだけの気力がなかった為にあのような言葉がついポロリとこぼれてしまったのです。
正直あのような場で僕の意見を述べ述べと語ることに少しばかり抵抗がありました。
3日ほど前からだったと思いますが、あの時僕が吐いた言葉がどうも引っかかってしょうがない。
これは自分の中でどうにかして決着をつけなければと思い、
このブログという場に吐き出してしまおうと考えた。
環境問題に興味がないというのは言い間違い、僕のものぐさな性格の為すもので、
「環境問題などというものはどうしたってなるようにしかならないだろう」、というのが僕の考えです。
僕は環境保護というものに積極的な姿勢はとっていませんが、たまたまどうして僕の性分と環境保護という立場の人間の行動様式が一致しています。これはまさしく僕の性分からくるものであり、彼らの言う人間のエゴで地球を破壊してはいけない、などという理念を僕が持ち合わせているわけではありません。
ポイ捨てなどというものを僕は殆どしたことがありませんし、むしろ拾う位のことを平然自然とする人間です。
汚れた水をみると悲しくなるし、燃える森を見るとどこか還る場所を失くしたような気がします。
でもこれは僕が生まれ育った環境の中でプログラムされた、一つの習慣にも似たような感情の働きで、そこにそれ以外のものはありません。
僕はポイ捨てをする人や水を汚す人、森を燃やす人に、賛美の言葉を投げることもありませんが、
罵詈雑言を浴びせるだけの理屈も頭の中で用意出来ないのです。
下品だなァ。と思うことはあっても、いざ彼らを更生させん、と
まるで僕が正しいことをしている正しい人間であるかの様に振る舞うことには違和感を感じるのです。
木を伐採するのが人間本位でエゴイスティックなら、木を植えるのだってエゴなのではないでしょうか。
そうしたいからそうしているのであって、それだけではないのでしょうか。
人のすることでエゴじゃないことなんてあるのでしょうか。
人間だけ他の生き物と違うという考え方も僕には分かりません。
自然から生れた人間は何時を境に自然ではなくなったのですか。
なるようになってきて、これからもなるようになっていくのだと思います。
この理屈(ともいえないような気もする)はどこか卑怯に聞こえるかもしれないけれど、やはりそうなのだろうと僕は思います。
「人類は反省する時が来た」と言って、木を植える方々、大変結構な事だと思います。
反省といってもだれに対して反省しているのか。何を反省すべきなのか。
なるべくして今まで木を伐採してきて、なるべくして一部の人間が異論(この異論の根底にあるものはなんなのだろう。僕はよく知らない。)を唱え始めて、なるべくして今一部の人間が木を植えているのだと思います。
僕はどちらの立場にも身を置けないのです。
意見が無いと言ってもいいのかもしれません。
正解などないのだと思う。
なるようにしかならないと思う。
と言いたいところだけれど、俺は実は月曜日には授業が入っていません。
故にあと2日休みがあるのです。(明日は敬老の日。)
明日はサークルと学食のために学校に行くことにします。
それで友達を誘って、明後日「アキレスと亀」を見に行くことにすると良いと思う。
あー。明日は教習所にも通わなくてはいけないのだった。
どうしたものか。困った。
そういえば今日(21日)も教習所に行ったのだけれど、以前日記に書いた女の子たち(いつの間にか疎遠になっていた女の子2人)と本当に久しぶりにお話をしました。
というか高校生活は正直女の子とほとんど話をしていないので、本当に久しぶりの事でした。
大体1時間くらいお話をしたのだけれど、何と言うか凄く楽しかったです。(嬉しかった。)
それに教習所では運転が上手くなったと誉められましたし、
コンビニのバイトでは同僚の女の子(この子との付き合いも長い)と、
運転免許を取ってドライブすることになったら何処に行ったら楽しいかなぁなどということを延々1時間位話しました。
なんだか今日はとても嬉しいことばかり起きる一日でした。

細野晴臣『はらいそ』
うひゃあ!!という感じのアルバムですね。
tr.8は名曲。
とても興味を持った。
これから細野さんのCDをチョイチョイ集めてやろうと思う。

フィッシュマンズ『男達の別れ 98.12.28@赤坂BLITZ』
今これを見ながら(聴きながら)今日のこの記事を書いているけれど、
本当に最高の(俺の好きな)音楽をやってくれてるって感じるよ。
warking the rhythm.
今日は何だか嬉しいことばかりあったから、文章もなんだか跳ねてるね。
何だっていい気分なんですよ。本当に。
男というのはつくづくどうしようもない生き物だと思います。
(別に女が常套な生き物だというのではなく。)
今日(18日)は22日に後期授業開始で、それまでのあと19、20、21の3日間全てに自動車教習所の技能の予約とコンビニのアルバイトが入ってしまっている為、一日中グータラできる、事実上最後の夏休みでした。
なんとなく目に留まったので図書館から借りっぱなしになっていた文庫本を返却に行きました。
貸出機嫌を少し(本当に少し!)過ぎてしまっていたので、編曲受付のおじさんの目を気にせずにはいられませんでした。
それで、その後。
気になった本を適当に抜き取って、カウンターで貸出手続きを済まして、それで図書館をあとにしたのですが、
その、何と言うか説明が難しいのですが、僕の家から最寄りの図書館は図書館だけでなく、プラネタリウムや多目的ホールなどが一緒の建物に入っていて、図書館から出た後もうひとつ大きな、おおもとの建物があるのです。
プラネタリウムにも、多目的ホール(よく落語やらコンサートやらが行われている)にも足を運ぶ理由はありませんからまっすぐ出口に向かうのですが、その時強烈に俺の目を引くものがありました。
何と綺麗な女性だろう。
彼女は図書館から出て、同じ建物の2階に建てられている多目的ホールへ向かうのに利用する、エスカレーター、そのすぐ後ろにある簡単な休憩所のような所にフワリと腰を下ろし、(彼女の体はまるで体重を感じさせなかった。)
一人で静かに読書をしていました。
その女性に俺は本当に強く目を引かれまして、少し茶色が入った綺麗な長い髪をした人だったんですけれど、服装はとても「イマドキ」な感じでコンバースのハイネック(黒)を履いていたのを俺は確かに覚えていますが、
俺は彼女の年代の十人並みの女の子たちがこのような立ち居振る舞いが出来るとはとても思えません。
とても落ち着いた雰囲気を醸しているその人に、俺は特別な魅力を感じました。
綺麗と書きましたがその時僕はまだ彼女の顔は見ていませんで、
僕はどうしても彼女の顔を一目見たい衝動に駆られ、彼女の座っている長椅子、その隣の長椅子の一番端っこ、彼女から一番遠い席に腰掛けました。
この建物から出口に向かうにはどうしても俺の席の前を通ることになります。
その時に顔を覗き見てやろう。
そう画策したのです。
結局女の顔を見るために30分もついさっき、目の前の図書館で借りた文庫本を読んでいましたが、
文章がちいとも頭に入ってきませんでした。
その時が来て、僕がちらりと覗き見た彼女の顔はどのような気持ちを抱かせるものだったか、
それはご想像にお任せします。
特別面白くもないものだったので、
書くのがどうも面倒です。
もうすぐ夏休みが明けるこの時期に申し込んでくるヤツってのは滅多にいないだろうと考えていたのだけれど、そうでもなかった。盛況している時の自動車教習所がどんなものか知らないけれども、月曜日の病院程度には混んでるよ。(微妙な表現で申し訳ない)
顔見知りも結構いた。
でも文字そのまま。本当に顔を知ってるだけで気軽に言葉を交わせる連中でもないので、
すれ違うたびに視線のやり場に困ってる。
同じ高校なんだけど、一度も同じクラスになったことがないカワイコちゃん。
小中学校が一緒で結構仲良くしてたけど卒業してからはなんとなくお互い無視してた女の子。
幼稚園から大学までずっと一緒で家も近所で、小6くらいまでは仲良くしてたんだけど、それから一度も同じクラスになれず、結局疎遠になってしまっているこれまた女の子。
俺は普段あまり女と仲良くできるタイプじゃないのに。
というか、今突然書きたくなったから脱線を顧みず書くけれど、
中学の時、いつだって阿呆みたいにベラベラとよくしゃべる人間だった俺は
自分で言うのも可笑しいけれども、とても多くの人間に囲まれた、所謂クラスの中心にいるような人間だった。
クラスの皆が全員俺のことを性じゃなくて下の名前を呼び捨てにして呼んでいて、
(顔も知らない連中も当然のように名前を呼び捨てで呼んできていた。)
俺もそれを特別なことだと感じなかった。
当時はあぁー俺って生まれつき人にウケやすい性格してるんだなぁ、だなんて思ってた。
でも今思えば、俺が人に囲まれているのは学校にいる間だけで、
放課後友達の家に行くなんてこともしなかったし、夏祭りに誘われたのだって3年間で1度だけだ。
中学の3年間ずっと同じクラスで、しかもその上名前の「読み」の関係上1年の始まりは毎年すぐ後ろの席に座るヤツがいて、中学3年間ずーっとそいつとツルんでた。
そいつは普段はすごく面白くてお調子者を気取ってるんだけど、実のところ肝が小さくてしかも卑怯というか卑屈な奴だった。
その上ワル乗りが過ぎるって言うか、気持ちが一つの線を超えると自暴自棄気味になって人に嫌われるようなことをするようなやつだった。
クラスメートが授業中に漫画を読んでるのを教師に告げ口したり、
自分にとって面白くないことをした部活の仲間を、教室の中でシカトされるように仕向けているような人間だった。なんだかよく分からない、馬鹿みたいな影での呼び名を決めたりして、はしゃいでるような人間だった。
よく俺も酷いいじられ方をされたりした。(でもそこにヤツなりの愛情みたいなものは確かにあった、と感じている。)
初めて女の子に、告白したいという旨のことを告げられ、放課後教室で待ち合わせをした時も、そいつは無理矢理に俺の手を引き、一緒に帰ろうと言い、彼女の勇気を振り絞っての行動を妨害しようとした。
彼女は普段俺と仲良く仲良くしている事から奴に相談していたというのに。
それを知る一般的な、気持ちのブレをあまり持たずに生きてる友人たちは、「良くあんな奴と喋ってられるね。」と苦笑いを浮かべた。
正直そこまでそいつの事が好きだったわけでもないし、在学中にも何度か決別しそうになったのだけれど、それをしなかったのは、根は寂しがり屋だってことが傍目で誰にもわかるほど浮き彫りになっていたから。
でもこいつさえ居なければ、というのは大げさだけれど、こいつともう少し距離を取って付き合っていれば、生涯を通して付き合えるような友人ができていたんじゃないかと思っている。
中学の時の男友達。
考えてみればそいつとの友情は破綻。(今では音信不通だ。どこの大学に行ったのかも知らない)
それ以外の友達とは、なあなあで終わってしまった。
「急激に仲良くなるきっかけ」みたいなものはあったのだと思う。
お互いの家に泊まりに行ったり、一緒に夏祭りに行ったりする仲になれたはずだ。
でもヤツがいたからいまいち踏み込めなかった。
詳しくは割愛するけれど確かにそうだった。
成人式で会うのが楽しみだ。
上のヤツの他にも会えるのを楽しみにしている中学時代のクラスメートが3人。
機械があれば書きたい。
文頭で書いた教習所の話はまた次の機会に。

小沢健二『dogs』
このアルバム持ってないんですけどね。
これに入ってる「天使たちのシーン」という曲が素晴らしい曲なので
それを是非聴いて頂きたい。
つい30分程前初めて聴いたのですが本当に凄かった。